これは広島の原爆の灯火。
先日、佐藤さんという方にお会いした。
その方は、今でも福岡県星野村に保存されている広島原爆の灯火を分けてもらい、
全国で、その灯火の歴史を説いて回っている。
なぜ、広島原爆の火が、福岡県星野村で燃え続けているのか。
それは1人の男性の大切な形見であり、痛みの記憶だった。
星野村出身の山本達雄さんという男性の人生の痛み。
その日、
三度目の召集令状を受け、
当時広島から130Kmほど離れていた豊田郡大乗村の陸軍野営部隊で任務に就いていた。
彼は汽車にのって、本隊へと向かっていた。
午前8時15分、、、
それは一瞬の出来事だった。
ものすごい爆発音と爆風、まぶしすぎるほどの白い光が走った。
何事か?
考える暇もなく、気付いたら、電車は真横に倒れていた。
原爆が広島市に落ちた瞬間の出来事。
しかし、現場の誰もが、何が何だか分からない。
乗客も何も分からず、事態が飲み込めない状況。
彼は、汽車を降り、広島市内へと向かった。
彼の叔父が広島市内でお店を営んでおり、叔父の安否が気がかりだった。
市内が近づくにつれ、彼は目を疑った。
真っ黒こげになりながら、皆が同じく、手を前に出して、うめきながら歩いていた。
皮膚はただれ、前が見えない状況で、苦しみながら歩いていた。
近くには女学校があり、その生徒であろう子たちもさまよっていた。
兵隊の恰好をした山本さんをみて、『お兄ちゃん!』と叫び、近寄ってきたという。
皮膚がただれて目がうっすらしか見えていない。
戦争に行った自分の兄と勘違いしたのだろう。。
何人も、何人も、『お兄ちゃん!』と自分の身体にすがる子供たちの手を退ける度、
彼女たちの皮膚がずれ、骨が出てくる。
(これ以上の描写は、控えます)
いわゆる画でよく見る「地獄絵図」の中を越えていき、
苦しむ人々から『殺してくれ』と言われ、
首を抑え、息がとめていった。
山本さんは、
『私はあの時、何百人も、この手で殺めた』
と語ったという。
そして、ようやく、山本さんは叔父の住んでいた店に辿り着いた。
そこには家の形も何もない。
もしかしたら地下にあった保管庫で生きているかもしれない!
そう思い、地下にいくも、本が散乱し保管されたままで人など、どこにも見当たらない。
上へとあがり、
ふと観ると、叔父がもっていた本達が炎で燃えていた。
その炎を、もっていたカイロにつめ、
『叔父の形見』
と持ち帰った。
戦争が終わり、兵隊としての任務を終えた山本さんはその灯火を、地元の福岡県星野村へと持ち帰り、燃やし続けてきた。
20年以上、この火が何の火か、息子にも言わずに、ただただ燃やし続けてきた。
そんなある日、星野村を取材にきたテレビ局から、夏でも燃やし続ける『火』について疑問に思い、質問をした。
すると、山本さんは、今までの思いが溢れるように先程のストーリーを話したといいます。
その火の意味を知ったテレビ局が全国に発信し、星野村が村一丸となって、その火を灯し続けるためモニュメントをつくりました。
またその火は、アメリカにも渡り、平和の象徴にもなりました。
現在も、70年以上、その火は、福岡県星野村で燃え続けています。
しかし、なぜ、20年以上も語らず、ただ火を燃やし続けたのか?
それは山本さんにとって『痛みと憎しみの記憶』だったからだそうです。
ずっと、この火を、アメリカに持っていき、同じ痛みを味合わせてやりたい!!と思っていたそうです。
その憎しみの感情が20年経ってきて、
山本さんの中で、ある考えに行き着きます。
憎しみは、憎しみしか生み出さない。
もうその気持ちでいるのはよそう。
そう決めたすぐあとに、テレビ局がきて質問されて、溢れるように『火』の存在が明らかになりました。
じつは、息子さんでさえ、その火が何かを知らなかったそうです。
この灯火は、平和の象徴として、今は存在しています。
しかし、この灯火には、痛みや哀しみ、憎しみの記憶も同時に残っています。
平和とは、多くの悲しみも、痛みも、見ないようにするのでなく、自分たちだけ平和であればいいという訳でもない。
その痛みも愛してはじめて、平和と声をあげられるのかも知れません。
『それでも、愛する。』
また一つ、自分の中で、考えさせられる出会いをしました。